迷いの時間

「おまえの目も曇ったなァ烏間。よりによってそんなチビを選ぶとは」

 烏間先生がナイフを渡したのは渚くんだった。すでに勝負に勝ったような口調の鷹岡さんに、申し訳ないけど、本当に申し訳ないけど賛同してしまう。だって渚くんはクラスの中でも小柄な方で、温厚で優しい男の子だから。更に今から使おうとしているのはいつもの対先生用ナイフではなく本物のナイフ。……どうして烏間先生は渚くんを選んだのだろう。
 「さぁ来い!」鷹岡さんの一声で、構えのポーズをとる鷹岡さんとナイフを構える渚くんが向き合った。私達はその周りを囲うようにして見守る。手にしたナイフを見つめる渚くんは硬い表情をしていた。

「(渚くん、頑張れ……!)」

 渚くんは一度静かに目を閉じ、そして動き出した。――ただ、歩いたのだった。毎朝通学中に会う時のように、ごくごく普通に。「おはよう、渚くん」なんて声をかけたら直ぐいつものように返してくれそうなくらい、微笑みながら、普通に。
 そのまま歩き鷹岡さんの拳に渚くんの胸が当たった、と思った次の瞬間にはナイフを持った手を大きく振り上げていた。鷹岡さんはナイフが首に当たるすんでのところで避けた。酷く驚いた顔で、後ろに倒れ込みそうになる。そこで渚くんは鷹岡さんの服を引っ張って転ばせ、背後へ回りそして――


「捕まえた」

 ナイフの峰の部分を鷹岡さんの首筋に当てた渚くんはそう言って薄く笑った。

 私達はただただ唖然としていた。渚くんを選んだ烏間先生までもひどく驚いている。鮮やかな暗殺だった。……そうだ、もしもこれが本当の暗殺だったら鷹岡さんは。――でも、あんな動きを見せられたのに、少し焦ったように「ミネ打ちじゃダメなんでしたっけ」と言う渚くんからはちっとも恐怖を感じなかった。至っていつも通りで、今のは本当に渚くんがやったのかとすら思ってしまう。だけど確かに渚くんは鷹岡さんを押さえ、ナイフを当てている。

「そこまで!!勝負ありですよね、烏間先生」

 殺せんせーの声でハッとした。先生は渚くんからナイフを取り上げポリポリと食べてしまう。そこで渚くんが勝ったのだと改めて実感した。……不思議。こうしてみんなに囲まれて声をかけられる渚くんは、やっぱりいつもの渚くんなのに。

 その時背後でゆらりと影が揺れた。鷹岡さん、だ。

「このガキ…父親も同然の俺に歯向かって…!まぐれの勝ちがそんなに嬉しいか…!もう一回だ!!今度は絶対油断しねぇ…!」
「…確かに、次やったら絶対に僕が負けます。…でもはっきりしたのは、僕等の「担任」は殺せんせーで、僕等の「教官」は烏間先生です」

 渚くんは鷹岡さんを見てきっぱりとそう言った。それは私達も同じ思いだった。「出て行ってください」と頭を下げる渚くんの後ろで、同意を示すように私達も鷹岡さんを見返す。怒りで我を忘れている鷹岡さんは襲いかかって来ようとしたが、烏間先生によって地面に倒された。ホッと安堵の息をつくのも束の間、いつの間にかいた理事長先生がグラウンドへと降りて来た。

「……ご用は?」
「経営者として様子を見に来てみました。新任の先生の手腕に興味があったのでね」

 にこりと笑み、鷹岡さんの前に膝をつく。……E組において鷹岡さんを負かしたとしても、教師の任命権は理事長先生にある。どうしよう。理事長先生はE組のみんなが勉強出来なくなる新しい時間割の方を取るのかな……。と、一瞬不安に思ったが、理事長先生は鷹岡さんの授業はつまらなかったとあっさり言い、サラサラと書いた解雇通知を鷹岡さんの口に詰めると踵を返した。

生駒さん。首は大丈夫かな?」
「はっ、い。平気です……」
「それは良かった。あまり無茶はしないように」

   そうしてにこりと静かに微笑むと、今度こそ去って行った。……いったいいつから見ていたんだろう。
 そんなことを考えている内に鷹岡さんは旧校舎から走り去っていた。渚くんが勝って解雇通知も渡された。つまり、これで無事烏間先生が私達の教官に返り咲いたということ。みんなから大きな歓声が上がった。

 それから話の流れで、烏間先生の奢りでみんなで街へ行ってお茶をすることになった。一件落着して良かったな、あとで渚くんにお礼とか言いに行かなくっちゃ。なんて思っていると、ちょうど隣を歩いていた前原くんの身体がぐらりと傾いた。咄嗟に腕を伸ばして支える。

「うわっ、大丈夫かよ前原!?」
「あー…わり、へーき」
「一旦保健室行った方がいいな。生駒さん、前原連れてくの手伝ってくれる?」
「うんっ!」





 磯貝くんと一緒に前原くんに肩を貸し保健室へ向かった。磯貝くんはすぐに「先生呼んでくるから」と言って出ていく。前原くんはベッドに横たわり、お腹の辺りを摩りながらフーッと深く息を吐いた。

「前原くん……蹴られたとこ、痛むの?大丈夫?」
「あっ、平気平気!渚の暗殺見て安心して、気が抜けたっつーか……」
「そう、なの」

 ひらひらと手を振って言うその姿は無理をしているようには見えず、ホッとして私も息をついた。それから私の首元を見ていた前原くんは、そのまま手を伸ばして触れてきた。思わずびくりと肩を跳ねさせてしまう。

「わりっ、痛かった……?」
「うっ、ううん!ちょっとびっくりして……」

 慌てて訂正すると前原くんは柔らかく笑いながら「そっか」と言い、するりと私の首筋を撫でてきた。心臓がドクドクとうるさくなり、触れられている部分に熱が集まるのがわかった。

生駒さんは平気?」
「うんっ……!も、大丈夫、だよ」
「良かった。でも、生駒さんってほんと意外と喧嘩っ早いっつーか無茶するよなあ」

 ドギマギしなが答えると、前原くんは今度はおかしそうに笑った。あれ……私そんなに無茶なことしたっけと首を傾げると、「ほら、全校集会の時とか」と言われる。思えば他にも心当たりがあるので、恥ずかしくついつい両手で顔を覆った。

「そう言えばよくそう言われます……」
「ははっ!でも生駒さんは女の子だし、理事長じゃないけど無茶はし過ぎないようにしねーとなー」
「うぅ……気をつけます…」

 ふと、私達の間に沈黙が流れた。どうしよう何か会話しなきゃ!と思いちらりと前原くんを窺う。そしたらばっちり目が合って、話そうとしていた内容が頭から飛んでしまった。何か言おうとして固まった私に、前原くんは「どうかした?」と小首を傾ぐ。その笑顔に胸の奥できゅんと鳴る音がした。

「あ、のっ!」
「うん?」
「私――」
「前原君、生駒さん。身体に不調は無いか?」

 ガラリと保健室の扉が開き烏間先生が入ってきた。慌てて前原くんから顔を反らす。もう一度調子を聞かれたので全然大丈夫と答えた。前原くんは先程倒れかけたこともあり、今一度診てみるとのこと。少し離れたところに移動していると、にまにまにと楽しそうなイリーナ先生と殺せんせーに絡まれる。

「ごめんなさいねぇ、?あの堅物が空気読めなくって」
「せっかく良い雰囲気でしたのにねぇ、ヌルフフフ」
「なっ!見てたんですか!?」

 イリーナ先生と殺せんせーからは相変わらず意味深な笑みを向けられるだけ。うあぁぁ……。ひとり頭を抱えていると、ぽにっと殺せんせーの触手が頭に乗せられた。

生駒さんにとっては三度目の忠告ですが、無茶は禁物ですよ?特に今回のような」
「はぁい……」
「前原君にも心配かけてしまいますしねぇ」
「っ、殺せんせー!」


 七月、本格的な夏の始まり。
 暗殺も……その他も、まだまだこれからみたいです。